俳句随想

髙尾秀四郎

第7回 恋の句

鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし 鷹女

 三橋鷹女(みつはし たかじょ)の句です。この句を初めて目にした時、作者のイメージとして、気性の激しい、自己主張の強い猛女を思い浮かべていました。しかし彼女の年賦や写真を見て、そうではないことを知りました。端正で、一見、竹久夢二に描かれる女性に近い印象を受けますし、実生活においても奔放な愛に走ることなく、医者で俳人でもあった夫、剣三氏とは鴛鴦の仲であったと書かれています。一方、俳句同人誌あしたの平成二十二年一月号に後藤典雄さんが「一句一筆」で引用されていた鷹女の第四句集「羊歯地獄」の「自序」にもありますように、「俳句は自らの鱗の一片の離脱」と言いなし、「鱗の離脱は生きていることの証」であり、それ故に「生きて書け…」と心励ます作句精神の強さは、ただ者ではないとも思いました。そして作品を追うと、鷹女の写真の目の鋭さが物語るように、強烈な自我への拘りとその自我を貫き通そうとする壮絶な緊張感、その根底に流れるナルシズムを感じました。
 冒頭の句は昭和三十六年、鷹女六三歳の時のものであり、「べし」という強い推量の助動詞を二つも重ねたこの句は、当時の俳壇でもかなり反響を呼んだようです。当時、女性が愛を告げることはまだまだ市民権を得ていませんでした。そのような世の中で、高らかに夫ある彼女は、恋する「私」を詠んでいます。しかし先述のような容貌や実生活のありようから、そうではなく、恋愛の感情を俳句の世界で打ち明ける人であったのかとも思われます。

 俳句で恋の句を詠む場合、必ず落ちる陥穽があります。それは恋愛が個人的な行動であり、感情のなせる事象であることと無関係ではありません。誰にとっても故郷は懐かしく、親兄弟への思慕は強いものです。恋愛の対象者が恋しく、愛おしいのは当然であり、直裁に「愛しい」や「恋しい」を持ち出せば身も蓋もありません。まさに「楽屋落ち」の句になってしまいます。正岡子規が客観写生の句の対比として、主観的な叙情句に対して「類似と陳腐」に堕すると言い切った通りの句にとどまってしまいます。その意味で、鷹女の句は禁じ手を用いながらもギリギリの線で踏みとどまった名句ということになりそうです。

 高橋治氏が書かれた「ひと恋ひ歳時記」の中には恋愛の様々なシーンを分類し、古今の俳人の句を抽いています。この中から私の独断と偏見をもって、いくつかの句を抽出してみました。

初恋や燈篭によする顔と顔        炭太祇
万愚節に恋打ちあけしあはれさよ     安住敦
細雪愛ふかければ歩をあはす       佐野まもる
妻二タ夜あらず二タ夜の天の川      中村草田男
蚊の声や妻恋子恋妻恋し         石田波郷
きさらぎの風吹ききみはひとの夫     桂信子
抱かれつつ撃たれてもよい葛の花     廣嶋美恵子
愛はなほ青くて痛くて桐の花       坪内稔典
夫恋えば吾に死ねとよ青葉木菟      橋本多佳子
接吻を知りそめし唇林檎食む       檜紀代
わが死後も妻黒髪を洗ふべし       進藤均
身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む      与謝蕪村
少女来て少女に増えし秘密かな      黛まどか
冬灯消し憎きをとこに会いにゆく     長谷川双魚
あきらめもつかず逢ひ得ず炭をつぐ    稲垣きくの
春冷ゆるむなしく別れ来し夜は      上村占魚

 続けて当同人誌の監修者、宇咲冬男先 生の句集から、同様に私の独断でいくつ かの句を抽いてみます。

吹雪く夜を愛してならぬひと愛す
りんご剥く愛に渇きし掌のよりど
妻かなし噛みゆけばある梨の芯
妻あらぬ夜の閨粗く椿落つ
冬霧や離りて住めば深む愛
春の鴨浮きて互いに遠き距離
くらがりの恋の火種の落椿
昨夜からひと想いおり木瓜の燃ゆ
掛け置かる閨にひと夜の花衣
黒薔薇や恋は魔性の裏返し

 連句には恋句の場所が決まっています。半歌仙であれば一箇所、歌仙であれば二箇所用意されています。恋句の前には恋の呼出しの句が出されます。この恋呼び の句の要諦は、具体的な人物を出したり、 敢えて景の句にするのであれば、特定の 人物の存在が容易に想像できる景の句とすることです。
 上記の恋を詠んだ句には、それが良いと思われる句であればあるほど、この要諦が当てはまりそうです。その上で、さらにどんな具体的で琴線に触れる事象や 行動を組み合わせるかがポイントになるように思います。その際に、一般的な「愛 しい」「恋しい」という「楽屋落ち」の表現ではなく、省略の効いた惻隠の情を醸す表現にできれば、きっと素晴らしい恋の句になろうかと思います。
  もう一点、恋の句については物語性を 挙げたいと思います。五木寛之のエッセイの中に「これはという題名が決まると、その題名に従った小説が書ける」という趣旨の一節がありました。冒頭に掲げた鷹女の句や冬男先生の「梨の芯」の句等は、その句をベースに短編小説が書けそうな気がするほどの物語性があるように思います。
  かつてあしたの会の本部句会において平本三保子さんという高齢の会員がおられ、 いつも瑞々しい句を詠まれていました。選句の際に、「この句は三保子さんの句でしたか?」と驚かされたことが数え切れないくらいありました。それだけに年齢を感じさせない魅力に溢れる方でもありました。冒頭の鷹女の句のように、俳句の世界で恋に遊ぶのも良いでしょう。「俳句は虚と実の皮膜に生まれる文学。句は作句の青春性と虚実の世界に"遊ぶ" 至芸である」とは宇咲冬男先生の言ですが、出来得るならば、愛に満ちた生活の中から愛や恋の句を大いに詠みたいものです。