俳句随想

髙尾秀四郎

第5回 素敵な句を作ろう!

 「縁あって」という言葉が好きです。「縁あって知り合った」「縁あって日本に生まれた」。様々な「ご縁」が身の回りにあります。仕事の関係でしばしば外国の方々とお付き合いする機会がありましたが、その際、打ち解けて杯を交わす仲になるとしばしばこの「ご縁」の話をします。ご縁を英語で表現すれば、「巡り合い」=Fate、や「関係」=Relation、とでも訳すのでしょうが、もっと運命に近い意味があるように思います。地球上には今60億を超える人が住んでいて、その内、一生の内に何人と知り合うことができるのかと思うと、今こうして同じ時間と場所を共有していることは偶然を通り越して、奇跡に近いと思うのです。そんな話を外国の方にすると、誰もが納得し、その時間や同席できたご縁をとても大切なものと思っていただけます。

 「縁あって」われわれは日本に生まれました。この四季が明確で、清らかな水に恵まれた国に生まれたことを、本当にありがたいと思いますし、海外に行って、素晴らしい体験をしながらも、やはり日本が良いと思うことのできる、この国に暮らせることを幸せと思います。

 昔、「野球を10倍楽しむ法」というベストセラー本がありましたが、この日本に生きながら、この素晴らしい日本を「10倍楽しむ法」として、私は俳句を詠むことを提唱したいと思っています。何故ならば、俳句によって日本の良さ、季節感を、それこそ10倍も楽しむことができると思うからです。日本に暮らしながら季節感を味わい楽しまない人のことを喩えて言うならば、食い倒れの街大阪や、魚のおいしい海辺の町に行ってもなお、ファーストフードのハンバーガーしか食べないような人、とでも言っておきましょうか。いかにも「もったいない」と思わずにいられません。

 そしてまず、俳句を持ち出す前に、日本を10倍楽しむためとして、「季節感を味わう」ことを提唱したいと思います。そもそも季節感は五感で感じるものです。そしてそれを言葉にしたものが季語であると思います。5、7、5(5音、7音、5音)という音律は、日本人の何事にもけじめや区切りをつける生き方に添っており、読んでも聞いても、発音しても、納得できる音律として心に響きます。梅雨入り(つゆいり)の発音は「ついり」に変え、一句に占める季語の音数を一つ減らし、他のパートの音数を一つ増やします。季語が1音譲ってくれたお陰で。他のパートは貴重な1音を加えて、さらに豊かな表現が可能になります。そんな小さな工夫や思いやりに満ちた言葉の宝庫が歳時記です。そこには日本があります。日本人が生きています。日本の精神が脈打っています。それ故に、私の座右の書のひとつは間違いなく歳時記と言えます。

 季節の変わり目に去り行く季節を惜しみ、新たな季節の到来を心待ちにする。その季節を楽しむ生活が、いかに潤いに満ちたものであるかを、季語(自然や自然に添った生活や行事)から窺い知ることができます。言い換えれば、昔からの行事を守り伝えることは、潤いに満ちた生活の実践のようにも思います。

 正月の松飾、お屠蘇、お節料理、お年玉。二月の凧揚げ、三月のお雛様、四月の花見、五月の鯉幟と、年々の行事を守り伝えることや、春の東風、夏の南風、秋の西風、冬の北風をそれぞれに感じ、その時の気温、湿度、折々に目に触れる雪月花等、季節やその表現としての季語と添いながら、生きることの素晴らしさを感じずにはいられません。

 季節感を味わう生活↓物質に偏らない生き生きした人生↓それを子供や孫や後輩に伝える↓豊かな人間関係やコミュニティの醸成。

 今、悲惨な事件を目の当たりにするにつけ、この本来あるべき好循環とは逆のスパイラルで世の中が回っているように思えてなりません。それ故に俳句という、孫悟空の「如意棒」のような、ドラえもんの「何処でもドア」のような自在なツールを携えて明るく楽しく生きて行きたいと思います。

 さて、俳句同人誌あしたの第2号から本第6号まで5回に亘って連載しました拙稿「俳句随想」も今回が最終回となりました。当初は5回に限るということからテーマを絞り、最小限の事項について、かなり凝縮して書かせていただきました。そのため、随想という表題にもかかわらず、俳論のダイジェスト版のような窮屈な表現が多々あったかと思います。

 この最終回を書き上げるにあたって、何か言い足りない思いも残っております。そこで、編集者と相談の上、次号以降、随想という表題にふさわしい「つれづれなるがままに、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書き綴る」、特に終わりを定めない、エッセイとして書き進めたいと思っております。従ってテーマはまだ決めておりません。但し俳句実作の現場に即したお話をしようと思います。俳句実作の現場には、句会用語とも言える独特の物言いがあります。宇咲冬男先生の請け売りになりますが、例えば次のような言い方があります。
「楽屋落ち」↓説明のしすぎ。自分で種明かしをし、裏側を見せすぎる、余情のない句。
「ああそうですか俳句」↓当たり前のこと、何の感動も捻りも発見もない句。
「付かない句」↓取り合わせの妙がなく、季語から離れすぎた句。
「詩のない句」↓粗雑な言葉を用いた対象や捉え方が美しくなく、詩情を感じない句。
「季語の説明」↓「付きすぎ」とも重なり、季語そのものの説明であり、余りにも季語に寄りかかり過ぎる句。
「二段切れ、三段切れ」↓切れが二箇所も三箇所もある句。
「散文句」↓表現が口語的で切れが無い句。そのため句の深み、余情がない句。
「季重ね、季違い、無季」↓つまり芯のない句であり、焦点がぼけた句。
「文法違反俳句」↓「切れ」でもないのに、名詞の上に連用形、動詞の上に連体形のような句。
「時間の逆転がある句」↓動作の時間的順序が逆転して不自然な句。
「主語が同居する句」↓私とあなたや彼、彼女の視点が同じ句の中にある句。
「自分がない句」↓自己主張がなく、メッセージ性に欠ける句。
「動く句」↓言っている内容が別の季語でも当てはまる句。その季語でなければ絶対にいけないと言えない句。等々です。
  そんな句会用語の解説も交えて、句作りの難しさ、深さ、それゆえの楽しさを、つれづれにお話したいと思います。
  つきましては次号以降も引き続きご愛読の程、よろしくお願い申し上げます。