俳句随想

髙尾秀四郎

第2回 切れ字

 冒頭からクイズを二題。次の句の切れ字は何でしょうか? またはじめの句の季語三つ(青葉、山時鳥、初がつを)の内どれがメインの季語でしょうか?

眼には青葉山時鳥初がつを
降る雪や明治は遠くなりにけり

最初の句は芭蕉にも影響を与えたと言われ漢詩にも通じていた山口素堂の句です。次
は中村草田男の有名な句です。素堂の句は三段切れでも有名であり、草田男の句も二段切れの名句と言われています。早速回答を申し上げれば、素堂の句の切れ字は初がつおで、季語も初がつを。但し、上五の「目には」の「は」の字余りによって上五、中七を一気に読み下すこともできますが、やはり三段切れになります。草田男の句の季語は当然「雪」で、切れ字もまた降る雪やの「や」になります。そして三段切れの場合には、最後が最も強い切れであり、二段切れの場合には季語のある方が切れているべき、というのが種明かしになります。かつて、あしたの会の年度大会に俳句結社「春燈」の故成瀬桜桃子先生がゲストとしてお見えになり、講演をいただいたことがありました。その中で「切れジはひさや大黒堂」と冗談を飛ばされて、大いに会場が湧いたことがありました。「ジ」違いの話ですが、桜桃子先生がそんな冗談を飛ばされる程、俳句における切れ字は注目を浴び、十二分に留意すべき大切なエレメントと言えます。因みに、この素堂の句の切れ字と季語の話は、句会の後の二次会の居酒屋で冬男先生に伺って知ったことであり、請売りに過ぎません。その二次会でのエピソードの中で、今回の切れ字に関係するものをもう一つご紹介します。未だ私が初心者であった頃、切れ字というものがあるらしい、それを一句の中では使わなければならないらしい、とおぼろげに感じていた頃のことです。その句会の前に私は友人達と一緒に北陸を旅していました。その中で金沢の郊外にある、芭蕉の句碑がある那谷寺も回り、
芭蕉の句を覚えて来ていました。二次会の居酒屋で私は、「北陸に旅行に行って、那谷
寺に行ってきました。芭蕉の句碑があって、確か、
"石山の石より白き秋の風"
という句でした」と申し上げると、先生は即座に「違います。
"石より白し"
です。」と訂正されました。当時の私はああそうですか、どちらでも構いませんが‥という受け止め方しかできない状況でしたが、後に、その違いが、兵隊の位で言うならば、二等兵と大将程の差に匹敵することを知ることになります。

 ここで、一般的な切れ字の説明をさせていただきます。冬男先生の盟友でもあられた故石原八束先生の著書からの引用です。『切れ字は俳句詩型の五音・七音・五音のリズムで区切れるどれかの部分の最後にあり、
そこで一度意味が切れる働きをするもので、芭蕉はいろは四十八字全て切れ字と言っているが、「や」「かな」「けり」は俳句特有の代表的切れ字である。「や」は詠嘆を伴った強い切れ字として効果的で、「かな」はその部分の調子を強めて断定する、一句全体の感動をそこに集中させ、一句を支えることのできる大断定となる。「けり」は動作や状態を詠嘆するものである』と。その上で『切れ字は形式とリズムに変化を与え、意味を区切ったり断定するばかりではなく、感動詠嘆により、調子を強め、俳句表現に大切な完結性を持たせる。また切れ字による休止の間(ま)は、十七音ではあらわしきれない隠された言葉を語り、想像力を掻き立てる。但し現代俳句では近代俳句に比べて、これら代表的な切れ字を余り使用しなくなっている』とも書かれています。

 この切れ字については、しばしば同じく日本の伝統を受け継ぐ日本画を引用した説明も多いようです。曰く、洋画と日本画の最も大きな差は空白の有無であると。どうやら日本画の空白、茶道の所作の間合い、俳句の切れ字には小さいものの中に感情や宇宙までも取り込もうとする壮大な意図があるように思われます。

 話を句会の後の居酒屋での冬男先生とのやりとりに戻します。もし芭蕉の那谷寺での句が、「石山の石より白き秋の風」であったなら、それはいわゆる「ああそうですか俳句」に堕してしまいます。「白さ」は単に石山の白さに似た風の白さでとどまってしまいます。これを「白し」と切ることで、その白さは極楽浄土を模した石山の全山に漂う秋の気配と、芭蕉自身の旅心の空白をも詠うことになります。この一字に拘り、即座に反応して異を唱えられた先生の俳句感覚が本物であるということを知るのは、それからしばらく経ってからでした。

辛崎の松は花より朧にて  芭蕉

元禄二年に出た荒野集に収められ、野ざらし紀行にも掲載されている大津で詠まれた句です。今以上に発句は連句の立句となる風格を持つべきとする当時、この句は連句の第三で詠む「て」「にて」留めで、はっきりと切れず、余情を流れるままに流すような風情です。芭蕉の弟子達は、その賛否について大いに議論をしたようです。この議論に対して、去来抄・雑談集には概ね次のような芭蕉のコメントがあります。「私は別に難しい理屈や先例を頭においた訳ではありません。花よりも松の朧なところに引かれただけのことです」と。このコメントには、時代背景があって、芭蕉は連歌から脱し、身近なイメージと感覚の斬新さを表現しようとしていたようですが、敢えて、「辛松の松は花より朧なり」とせず、「朧にて」としたのは、それだけ見たままの実感やイメージを大切にしたいという思いからなのでしょう。連句実作の場において、冬男先生が「付け味」という表現での選択基準を持ち出されることがしばしばあります。これが連句では最も重要とも言われています。また俳
句一句の中でもこの「付け味」の概念は生きるのですが、それはまた別の稿でお話します。形としては、自、他、場のバランスを取ることは、確かに連句の運びを停滞させないために重要ですが、一方で、森羅万象の曼荼羅を内容として付け進む場合の「付け味」は形式以上に大切と言えます。芭蕉のこの「辛崎」の句の「にて」留めは、芭蕉が、いろは四十八字全てが切れ字たり得ると言った言葉と重なり、切れ字のありようを示しているように思えてなりません。『この句において、その場に居た自分にとって、「にて」こそが切れ字だったのだよ』という芭蕉の声が聞こえるような気がします。