俳句随想

髙尾秀四郎

第1回 新仮名と旧仮名

 二〇〇六年に明治生まれの法律「商法」が全面改訂され、「会社法」に生まれ変わりました。その前年の秋、私はビジネスモデル学会の秋季大会の実行委員長兼基調講演者として、東京大学にて「新会社法とビジネスモデル」と題したスピーチをしました。そもそも六法全書の六法とは、憲法、民法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法及び民法に、民法の特別法としての商法を加えた六つの法律を指し、それらは時代の要請に応えて様々な改訂が繰り返されてきた経緯をもっています。この六法の一つである商法(現在の「会社法」)の中には、次のような条文も含まれていました。

 商法 第一編 総則 第六章 商業使用人第三十八条 支配人ハ営業主ニ代リテ其ノ営業ニ関スル一切ノ裁判上又ハ裁判外ノ行為ヲ為ス権限ヲ有ス2 支配人ハ番頭、手代其ノ他ノ使用人ヲ選任又ハ解任スルコトヲ得・・・このような古色蒼然たる条文を内包する法律が二〇〇六年(平成十八年)まで現行法として生きていたのです。同人誌の中で法律文の表記を論ずるつもりは毛頭ないのですが、この商法は、現行の六法の中で、「旧仮名、文語表現、カタカナ表記」の法律文として最後のものであり、その言葉の表記が全面改訂されたという点において、今回の法改正は歴史的な意味を持っていました。翻って、現代の日本においてマスコミや文学等の世界で使われている言葉には、新旧の仮名遣いと共に、口語と文語による表現があります。旧仮名は主に短歌や俳句の世界に残り、他の分野でも旧仮名信奉者によって書き継がれています。文語と口語は、文字通り、文章や特に韻文で文語が、話し言葉や一般の平明な表現では口語が、広く使われています。こと俳句に関しては、その世界が特殊であることを証明するかのように、「旧仮名、文語」の使用が主流といえるほど依然として衰えていません。

 早稲田大学名誉教授故暉峻康隆先生のあした誌の巻頭論文「気になる短詩型文学の表記」(一九八三年七月)において、旧仮名の歴史として、旧仮名の国民への一般化の起点を明治四二年の国定教科書における旧仮名への統一とし、新仮名への移行の時期を昭和二一年の文部省の次官通達によって昭和二二年度使用の教科書から当用漢字や現代仮名遣いを使用することになった時点、と論述されています。この間の三八年間が国民的なレベルでの旧仮名時代であったこと、放送の世界では、音声でのコミュニケーションが先行するために、音声と表記とが異なる旧仮名は使用できず、新仮名で表記するようになったこと、等を述べられた後、今後新仮名時代に生まれ、旧仮名を教えられていない世代に対しても、延々と旧仮名での俳句や短歌の表記を求めるのか、という問いかけをされた上で、次のような二者択一が迫られていると論じられています。

1時の流れに沿って気長に決着が付くのを待つ。
2同人のコンセンサスを得た上で新仮名に統一する。
そして、手をこまねいていては短詩型文学の新しい展望は開けないと苦言を呈し、結語とされています。お生まれになった時代を感じさせない、切れの良い評論として拝読させていただきました。

 一方、日本経済新聞朝刊の最終面に「私の履歴書」という各界で著名な方々の生い立ちから現在までを一ヶ月かけて綴るコーナーがありますが、このコーナーの二〇〇八年(平成二十年)の十月は歌人の岡井隆氏が執筆されました。短歌をここまで極められるものかと感服させられる内容でしたが、この中で岡井氏は旧仮名・新仮名問題を取り上げられ、次のように述べられています。「歌人として大きな打撃だったのは、国語制度の改悪である。仮名遣いの改変と漢字制度の改悪は、占領軍だけの考えによるものではない。・・」として、旧仮名廃止の最大のマイナス点を明治以来の近代短歌の歌集など大半の文献が現代の教育を受けた人には宝の持ち腐れになってしまったこと、つまり伝統をここで断ち切ることになったことである、と書かれています。氏ご自身は四十歳代まで現代仮名遣いに、やがて「"個人的な決意として" 仮名遣いを旧に戻した。」と述べられています。

 言葉は言霊と言われるように、気持ちそのもの、魂でさえあるという面もありますが、一方では間違いなく、気持ちを伝えるツールでもあります。ツールは目的によって変えるものです。幼児に対しての言葉は幼児語や平易なものを使います。学術論文やスピーチにおいては短い中に多くの内容を含め、的確な表現とするために、漢字表現や英語表現を多用します。しかし一方で、ツール( 道具)に対してさえも人は愛情を持ちます。その言葉の仮名表記が、その生まれた時代においては旧仮名であった方々にとって、旧仮名には単なるツールを超えた、慣れ親しんだ愛すべき言葉、生きてきた時代の証となっており、思い出とも一体となっているはずです。その使用を否定する権利は誰も持ち合わせていないと思うのです。つまり、つき詰めれば、新仮名、旧仮名の問題は、表現や伝達のツールの問題を超えて、心情の問題にまでも踏み込むことになるようですし、先出の岡井氏の"個人的決意として" にはこの辺りのニュアンスが含まれているようにも思われます。ここにこの問題の難しさがあります。

宇咲冬男先生が主宰のあしたの会では、新仮名遣いへの統一を提唱されると共に、旧仮名での投稿も拒まないというスタイルを採られていました。極めて合理的で時代の流れにそった対応であったと改めて思います。それ故に、「俳句同人誌あした」でも、新仮名を推奨しつつ、旧仮名も否定まではすべきでないと思います。しかし一方で、新仮名への移行から六十年が過ぎた今、暉峻先生のお言葉のように、一歩進めて新仮名に統一し、短詩型文学の展望を開くべき時期に、すでに至っているとも思っております。