俳句随想

髙尾秀四郎

第 60 回  絶滅危惧種季語・新年


対談用の春着あれこれ決めかねて   夏井いつき

冒頭の句については後ほど希少季語の項で触れさせていただくこととして、私の正月の恒例行事の一つに成田山新勝寺への初詣があります。切っ掛けは岳父・篠原弘脩が若かりし頃、職場の同僚の死に遭遇したことであったようです。私も40歳代の初めから同行するようになり、その後は人の輪も広がって20名程の規模となって、今では親戚の新年の顔合わせの場のようになっています。岳父が始めてから70年、私が参加するようになってからも30年近く続いている超マンネリではあるものの楽しみな行事になっています。

成田さんに到着するとまず古いお札を納め、新しいお札の注文をするのですが、その際に「お願い」の欄で該当するもの一つを選ばなければなりません。家内安全、商売繁盛、学業成就等があり、会社の業績が芳しくない時などに商売繁盛を選んだ年もありましたが、家庭がしっかりしていなければ商売繁盛もなかろうと、概ね家内安全を選んでいます。この時にいつも思うことは、幸せとは何かということです。正月にはこの永遠のテーマについて毎回飽きずに考えます。本号(平成三十一年1、2月号)の「珈琲待夢」のコーナーにも書かせていただきました「四柱推命」の中でも述べておりますように、何をもって幸せとするのかについては未だ解に辿り着いておりません。但し、四柱推命的な回答としては、バランスの取れた状況をもって幸せと見るようです。陰陽五行で言えば五行(木火土金水)があって、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木と、生み出す関係がある一方で、木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木、木剋土という剋する(攻撃する)関係もあります。この関係が自らの性格にも、人間関係にも繋がります。持って生まれた性格や性情で言うならば五行完備の人はバランスが良く幸せになる資格を持つと言われています。しかし実際に鑑定をし、五行完備の人に巡り合うと、確かに棘の無い好人物であり、不自由のない生活を送っておられるようですが、意外と平凡であり、世に言う大成功をした人がいません。言い換えれば大成功は幸せとイコールではないようです。もう一つ、徳の有無があります。これは生年月日から割り出された「貴人」という守護神の有無で見ます。最高位の貴人を持つ人は確かに徳の高い人が多いと思います。そして不思議なことに、何らかの「貴人」という守護神を持つ人に共通することは、目に見えないものや人知の及ばないことがあることに肯定的であるということです。なんらかの「貴人」を持ちあわせていない人は何故か、自分やお金、目に見えるものしか信じない傾向があります。

さて、そんな新年の絶滅危惧種季語について見て行きましょう。新年自体、人間が勝手に決めた人為的な時節にすぎないため、そもそも新年の季語は人事の季語に満ちています。その中で全く推測のつかなかった季語は次のようなものでした。

傀儡師(かいらいし・くぐつし)=正月に回ってくる人形遣い。

粥杖(かゆづえ)=正月十五日に炊く「小豆粥」を煮るときに使う「年木」

毬打(ぎちょう)=八角形の槌で相手が投げ転がしてくる木の玉を打ち返す遊び。

雉子酒(きじざけ)=正月に宮中に参賀した人に饗せられた酒。熱燗の中に焼いた雉子肉が入っている。

懸想文売(けそうぶみうり)=江戸時代元旦から十五日まで「懸想文」を売り歩いた人。嫁ぐ前の娘たちが良縁を祈って買い求めた。

小松引(こまつびき)=平安時代、、1月最初の子の日に野に出て小松を引く遊び。

鳥総松(とぶさまつ)=門松を取り払った後の穴に、その松の梢を挿しておく風習。

鳥追太夫(とりおいだゆう)=江戸時代。手を叩きながら祝言を唱え歩いた女の門付け芸人のこと。

担茶屋(にないじゃや)=「一服一銭」とも呼ばれ、煎茶を点てて売り歩く商売。

庭竈(にわかまど)=正月三が日を、庭や土間に作った新しい竈で煮炊きし、筵などに座って飲食する風習。

尾類馬(じゅりま)=沖縄の正月に遊女(尾類)が着飾って練り歩く行事。

帳綴(ちょうとじ)=正月四日または十一日に、商人が新年に使う新しい帳簿を作り、一年の商売繁盛を願って祝うこと。

勅題菓子(ちょくだいがし)=宮中歌会始の題を勅題といい、その題にちなんだ菓子のことを言う。

成木責(なるきぜめ)=柿の木などの豊熟を願って小正月に行われるまじない。

振振(ぶりぶり)=「振振毬打」(ぶりぶりぎちょう)あるいは「玉振振」(たまぶりぶり)ともいう正月の飾り。

かつての日本の正月は様々な配役を担った人々が正月を盛り上げていたことが分かります。

そして遺したい希少季語としては、今でもしっかりと使っているため希少季語とは思っていないのですが、希少季語として記載のあった次の2つです。

「女正月」「春着」。「女正月」は今でも実際に主婦同士が寄り合って宴会を開いています。男女平等が叫ばれて久しいのですが、この季語が名実共に希少季語となった時点が本当の男女平等の実現の時かと思います。もう一つは「春着」です。今でも正月の町に出れば春着の女性やちょっと気取った服を着た人に出会います。しかし冒頭の句の作者である夏井氏さえ、年々「ハレ」の感覚が薄くなっていることに気付くと書かれています。特別な時と普通の時の境目がなくなるのは、けじめが無くなりメリハリのない世の中になりそうで心配になります。

正月を挟む年末年始は五月の黄金週間と並んで大型の非日常を試すことができそうな期間になります。年に一度、幸せとは何か、自分はどうしたいのか、どう成りたいのかを改めて考えてみたいと思います。

身勝手な願いばかりを初詣  秀四郎